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日航シャンボ墜落事故

1985年8月12日 羽田発JA123関西行きが墜落しました。
誰もが知っている有名な事故です。

JA123.JPGJA123イメージ図

テレビとかではあまり報道されていない話かもしれませんが、墜落する
30分以上も前から米軍横田基地はJA123の異常に気がついて、東京コント
ロールに混じってJA123に呼びかけをしたり、厚木基地にコンタクトを取り
救援準備をしたり、素早く救援活動が出来るように準備してたんです。

ざっと書くと・・・・。

墜落から1時間後?くらいには、近くを飛行していた米C130が現場周辺を
哨戒し現場を確定。
厚木基地(海軍)からは、暗視カメラを搭載している海兵隊のヘリコプター
を現場に向かわせ、現場上空に到着後、救助降下する直前まで行って「基
地への帰還命令」が出て止む無く帰還。
その頃、地上部隊は、既に、緊急支援体制の確立、救援の為の大部隊編
成が終了しており、トラックには、米兵が乗って待機をしている状況であった。
この時点で、墜落から2時間後。。。

米軍は日本政府に出動要請を繰り返し行ったが、日本政府は警視庁の
「救援は不要」との見解で、米軍の支援を断ったとされている。

実際には、日本側の面子もあり、日本の救援隊が先着すべきとの判断で、
自衛隊と管制センターで墜落現場をひたすら探して、墜落から4時間後
(だったかな?)にやっと墜落地点を断定。
それから日本の救援隊が現場到着したのは墜落から14時間後だったんだ。
それも地元の消防団が到着。。(-_-;)

これって、どう思います??
助かった4名の方々以外にも、墜落当初は他にも生存者はいたらしいです。
米軍が墜落2時間後から救出活動を始めていれば、あと数人、もしくは、
数十人は助かっていたかも?です。

悔しいですね。(T_T)


当時は日航逆噴射事件とかが起きており、日本航空への風当たりは相当
強く、事故機のクルー(約15名)の遺体検視も、真夜中とか、他遺族を一度
出してから裏口から入ってもらうような気の使いようで、検視時間も数十分
だったと聞いています。

特筆すべきは、高浜機長の卓越した飛行テクニック。
4系統の油圧(ハイドロ)がALL ZEROの状態って、設計上あり得ないし、
飛行理論上、本来飛べないはず。
別のパイロットならば事故後2~3分で墜落してもおかしくない状況なのに
30分以上も飛ばしたテクニックと、羽田への帰還への執念には、感服せざ
る得ないと思うほど。

この事故を契機に、フライトシミュレーションにJA123のプログラムが追加され、世界
中のパイロットがシミュレーションをしたが成功した事例はないそうだ。

だが、1例だけ、非常に稀だが、JA123と同様の「油圧系統が全てダメに
なった事故」があり、なんとか飛ばしながら空港まで戻って来た事例があ
った。
それがUA232便不時着事故でした。

機体(DC-10)は違いましたが、JA123事故のフライトシミュレーションをやっていた
飛行教官が乗り合わせており、その教官がスロットルを担当。
(その教官もシミュレーションでは一回も成功した事はなかったそうです。)

しかし、なんとかフライトを続け、緊急着陸まで漕ぎ付けた事故機は、不時
着の際機体右翼先端が滑走路に接触し、機体は側転するかの如く回転し
てキャビンが真っ二つに折れて炎上をしました。

しかし、幸いな事に、296名の内、生存者185名だったのは、やはりJA123
事故のフライトシミュレーションのおかげと、数日前に火災訓練も行われていた事が
幸いしていたとされています。

確実にJA123の事故は、世界中のパイロットに受け継がれているんですね。

それにしても、日本のつまらない面子に命をもてあそばれた被害者の方は、
本当に可哀想でなりません。
毎年、この時期が来ると、今、ツラツラと書いた事が頭の片隅から沸いて
出てきます。

そして今、日本中がオリンピックで沸いているのに、何故か、ガテンが行か
ない気持ちを持つのは、私だけなんですかね?

今日は長くなってしまいました(T_T)

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